英語学習に王道あり!ヤリマン参考書を最初から狙え

高慢と偏見

大学生のころ、文学作品の批評文をみんなで訳す授業があった。

そのクラスには、「私、英語できますから」という顔でリーダーぶる女子がいた。

学期も終わりに近づきつつあった、そんなある日のこと。

「……ということなんだ。であるからして、ここはこういう意味になってだな――」

「先生、ちょっと待ってください!」

教授の説明を遮り、その子が言った。

「そこの文法用語、間違ってますよね? 私、予備校ではこう習いました!」

教授は困り果てていた。

みんなも困り果てていた。

僕は、静まり返った教室でお腹が鳴らないよう、ただ必死だった。

ぐ~。

(しまった!)

今のは聞かなかったことにしてくれ。

そして、大学に入ったら、とある予備校の、とある教室だけで通じるローカルルールもいったん忘れてほしい。

みんながみんな、その先生の授業を受けていたわけでも、品詞分解して大学に入ってきたわけでもない。

日本で英語を習ったわけじゃない人だってたくさんいる。

共通の言葉で話すことが、優しさってもんなのだ。

浪漫と盲信

独自の用語。

独自の記号。

独自の分類。

そういうものは、一見すると僕たちを特別な世界に連れていってくれそうに見える。

「この先生だけが知っている秘密」

「この講義だけが教えてくれる真実」

「ほかの参考書には載っていない本質」

そんな言葉を見ると、つい心が揺れる。

でも、揺らしていいのは、きんたまだけだ。

性別は増えても、文型はこれ以上増えない。

欺瞞と依存

ここでいう独自の用語とはもちろん、「現在完了」や「過去分詞」のことではない。

「現在完了」と言われても、現在なのか完了なのか、最初はよくわからない。

「過去分詞」だって、現在の受動態を作ることがある。

今の話をしているのに、名前は過去分詞。

現在なのか過去なのか、はっきりしてほしい。

でも、それでいいのだ。

名前がややこしくても、その言葉は外の世界とつながっている。

問題なのは、ごく一部の教室、ごく一部の講師、ごく一部の参考書でしか通じない言葉や読み方だ。

そういうものを身につけさせられると、生徒はその先生から離れにくくなる。

「この先生の講座を取り続けなきゃ…」

「ほかの先生の参考書じゃ用語が違うからわからない…」

「でも、怒ったあとに優しくしてくれるから…」

まるでDV男だ。

ジャーゴン、つまり内輪だけで通じる言葉は、仲間意識を作る道具になる。

「この言葉を知っている自分は特別だ」と錯覚させるのだ。

けれど、それは講師としての本物の力ではない。

竹下通りで偽ブランドを、いたいけな高校生に売りつけているのと同じだ。

よく見ると、タグがついていない。

爛漫と互換

もちろん、クセのスゴい参考書がすべて悪いわけではない。

問題は、その本で得た知識が、外でも通用するかどうか。

この参考書で学んだことが、あの参考書でも復習になる。

時代や著者、出版社を超え、そんなつながりがある本こそ本物だ。

独自のルールや用語だらけの参考書は、レゴの山に紛れ込んだダイヤブロックでしかない。

ハマりそうでいて、なかなかハマらない。

でも、デュプロで遊んでおけば、大きくなったときにちゃんとレゴにハマってくれる。

ヤリマンと王道

じゃあ、僕たち英語学習者は、どんな参考書を選べばいいのか。

答えはシンプルだ。

どんな本とも、どんな先生ともくっつくヤリマン参考書を選べばいい。

有名でも、無名でもいい。

厚くても、薄くてもいい。

問題は、ほかの知識とつながるかどうかだ。

辞書とも、文法書とも寝る。

大学受験とも、英検とも、TOEICとも、実務翻訳とも、あっさり一夜を共にする。

尻軽は、英語学習においては美徳なのだ。

ヤリマン参考書は開かれている。

だからこそ王道なのだ。

王道とは、退屈な道ではなく、みんなが使える道のこと。

王道か邪道かをまだ見分けられないうちは、とにかく「くっつきやすい」参考書を選べばいい。

新しい道は、そう簡単には生まれない。

王道こそが近道だ。

挫折しても後腐れなく、何度でもやり直せる。

別の本に浮気しても怒らない。

別の先生の話を聞いてもすねない。

最後には、ちゃんと力だけを残してくれる。

それがいちばん誠実な参考書なのだ。

僕たちを裏切るのは、いつだってヤラナイマン参考書だ。

期待だけさせて、その本を閉じたあとは何もしてくれない。

英語学習は、ヤリマン参考書を最初から狙え。